最終日、朝ごはんを食べ終わって、さあ、迪化街で買い出しって腰を上げたのですが、
今回、これからソウルに向かうので、そんなにいっぱい買えないのです。
時間に余裕ができたので、いつもは行かない、迪化街と民生西路の交差点を超えて、「大稲埕」とかかれた門みたいなのをくぐってみました。
この港が使われなくなってどのくらいたつのでしょう。かつては台北一栄えたにぎやかな港も、
今はのんびりと人々が集い、川面を渡る風に吹かれながら憩う風景になっています。
台湾烏龍茶が世界に名を馳せたのも、もとはここからなんですね。
大稲埕の歴史をちょっと調べてみました。
大稲埕は稲を干す大きな施設の意味
清の康熙年間、大陸からの移民団がこの地を開墾し、ここは大規模な水田地帯になりました。
そこで採れた稲穂を乾燥させる施設があったので大稲埕と呼ばれるようになったそうです。
始まりは林藍田氏の3軒の商店から
1851年、林藍田氏がここに閩南街屋式建築物を3棟建てたのを契機に、大稲埕に新しい集落が形成されるようになりました。
台北へいち早く入植したのは「黄家」です。「萬華」に住み、彼らは自分たちの氏神を祀るため「龍山寺」を建てました。
そこへあとからやって来たのが「林家」です。「黄家」と「林家」の間に大械闘が起こり、負けた「林家」が大挙して「大稲埕」に逃げ込んだのです。
その後「萬華」の港は、土砂で河底が上がって船が付けなくなり、その代りの港になったのが「大稲埕」です。
※林藍田氏が建てた閩南街屋式建築物はまだ残っています。
長い間、占いの館として使われていたのですが、修復され一部は一般公開されています。伝統的な閩南式街屋の内部構造をじっくり見てみてはいかがでしょうか。
詳しくはコチラ⇒
ジョン・ドッドと李春生による台湾茶の発展
阿片戦争敗北による淡水開港後、最初栄えていた萬華が河砂の堆積で使えなくなると、大稲埕がそれにとって代わり、台湾北部の商業、貿易の中心地となりました。
1865年イギリス人ジョン・ドッド(Jone Dodd)は、福建省安渓の茶苗を台北農家で生産させ、生産後に買い取るという事業を始めました。
またアモイ生まれの李春生も茶葉産業に詳しく、2人が手を組んだことで台湾茶は大きく発展していったのです。
台湾で生産された茶葉は最初アモイで製茶されて商品となっていたのですが、2人は製茶設備に投資し、福建省から製茶技師を呼び寄せ、製茶技術を高いレベルまで引き上げました。
その甲斐あって、「精選台湾烏龍茶」(Choicest Formosa Oolong tea)は英国のビクトリア女王のお気に入りとなり、その名声を高めました。
そのため、大稲埕から出荷される台湾烏龍茶は、世界中で取引され、価格は跳ね上がりました。
※李春生が迪化街に構えていた店舗。バロック建築の立派な建物ですね。
最盛期
まず、5大茶行が大稲埕に支社を開設し、イギリスやアメリカに大量に輸出されるようになると、大稲埕は国際的な茶市として隆盛を極めていきました。
そしてFormosa Teaが世界中に運ばれて大稲埕の発展を牽引するようになると、各国の貿易会社が集まり、大稲埕沿岸に洋館や領事館が起ち始めました。
日本統治時代になると、伝統的なお茶の交易以外に、漢方、繊維など、様々な商品も扱い始め、さらに繁栄しました。
閩南式建物の街並みだったのが、バロック建築、建築スタイルが取り入れられ、華やかな外見を持つようになったのです。
また大稲埕は、台湾経済発展の中心地だったばかりでなく、詩社などの文学活動の発祥地としても、よく知られています。
※外観が直線的で、モダンでシャープなこの建物、竹の形になった雨どいに目が魅かれて思わずシャッターを切りましたが、後で調べたら、ここがもとの「港町文化講座」でした。非武装抗日運動の拠点となった建物です。
現在の大稲埕
清朝末から日本統治時代に隆盛を極めた大稲埕地区ですが、淡水河の土砂でここの港も使い物にならなくなり、また時代が変わったことや、都市機能が東へ拡大していく中で、大稲埕は次第に繁栄から取り残され、今現在のようなちょっと廃れ感のある街に落ち着きました。
ただ、ここ最近は若い人が集まってきており、繁栄を極めた当時、盛んに建てられた西洋建築の建物を素敵にリノベーションして、おしゃれな雑貨屋やカフェに変身させています。この街もまた少し活気づいてきました。
私達旅行者は、ここは、からすみやドライマンゴーやその他の乾物を手に入れるところとして楽しんでいますが、
次の旅では、もう少し視点を広げて、距離を広げて、deepにこの街を探索してみるのも悪くないと思います。
大稲埕散策におススメiPhoneアプリ
大稲埕地区にスポットを当てたガイドブックってなかなかなくて、探せなかったのですが、 iphoneアプリでありました。
美味しいもの情報もバッチリですよ。