市外バスターミナルでバスを降りて
自転車をレンタルしました。
霧雨のような雨が降っていたので
自転車屋のおじさんが
ビニールカッパとシャワーキャップも貸してくれました。
カッパはありがたかったですが、
シャワーキャップってどうなの?
ちょっと、というかかなり恥ずかしい恰好になったけど
おじさんにお礼を言って出発しました。
大きな橋を渡ってからは
自転車道が整備されてて走りやすかったです。
20分ほどで到着。
まずは古墳の手前にある「大宗武烈王陵碑」から
亀が背中に乗せている6体の龍が彫られている
「螭首(ちしゅ)」の部分に「太宗武烈大王之碑」
という文字が刻まれていたために
この古墳が太宗武烈王のものであると断定されるそうです。
たいていの古墳の被葬者が文献や出土品からの推定であるのに対して、
この「武烈王陵」だけは断定できるのですって。
因みにこの武烈王陵碑の文字を書いたのは
武烈王の次男の金 仁問って人です。
(彼のお墓もここから道路を渡ったお向かいにあります。)
「螭首」の上にあるはずの碑文は失われてしまったんですって。
誰かが持って行ってしまったのでしょうか。
『日本書紀』孝徳天皇大化三年(647年)に
新羅は、金春秋を遣わして、孔雀と鸚鵡を献った。
よりて春秋を「質むかはり」とした。
春秋は姿顔美しくて善みて談咲す…とあります。
金春秋はのちに654年に新羅第29代武烈王となった人です。
金春秋が日本に来た頃の前後の状況を見てみましょう。
642年、新羅は百済に大耶城を奪われる
大耶城の城主は金春秋の婿だったのですが、
百済は城主とその妻である金春秋の娘らを殺し
その首を新羅に送ったのですって。
金春秋は憎しみに燃え、きっと復習を誓ったことでしょう。
その後、金春秋は高句麗に赴いて援軍を求めたけれど、
逆に怒りを買って軟禁されてしまいます。
ですが金庾信が兵を率いて国境まで救出に向かい
高句麗は金春秋を解放しました。
644年、唐は第一次高句麗遠征を開始し、646年高句麗が謝罪して休戦となった
647年、新羅で内乱。
女王では国は治まらないと内乱が起きたけど
金庾信らによって抑えられました。
647年、金春秋倭国へ
648年、金春秋とその息子金文王、使者として唐へ
654年、金春秋が武烈王として即位
武烈王陵の後ろには4つの古墳が並んでいます。
武烈王のご先祖さんのだとか。
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百済武王の娘の額田王(小林説)が
武烈王に嫁いだのはいつなのでしょう。
武王は641年に亡くなっています。
武王が亡くなると額田王は新羅を離れますので
まだ即位まえの金春秋の頃に嫁いだと思われます。
つまり額田王が嫁いでいた頃は王にはなっていなかったのですね。
額田王は新羅では、王妃という扱いは受けていなかったのですね。